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駆け込み「降車」はおやめください!

評判のいい皆さんこんにちは!

 

私の仕事は外に出ることも多く、移動には車も使いますが、渋滞の可能性もあるし、駐車場を探すのも一苦労、運転も少々疲労がたまりやすい年齢になりました(笑)ので、かなりの頻度で公共交通機関を活用しています。特に列車の移動が好きですね。時間が正確で、車中は仕事をしたり本を読んだり熟睡(※この時間が最も多い)することができます。飛行機も速くて快適ですが、空港まで行く時間や待ち時間などを加味する必要がありますし、機内ではパソコンを開くことができない状況もあります。というわけで時間や費用が少々かかっても高速バスや飛行機よりも列車を選ぶことが多いです。

 

乗客が多い地域・路線や時間帯によく駅や車内で昔から耳にする「駆け込み乗車はおやめください!」というアナウンスがあります。あれは危ないですね。その列車に乗りたいと思う気持ちは充分に理解できますが、他の人に衝突したり、ドアに挟まったりして思わぬ事故の元になります。ドアの開閉操作が増えるので遅延の原因にもなってしまいますね。本当に「駆け込み乗車はおやめください!」だと思います。

 

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 (画像はジャカルタの駅の様子)

 

 

しかし、私が観察するに、昨今の列車の発車時における危険行為は「駆け込み乗車」なのではなく「駆け込み『降車』」ではないかと思います。

 

特に首都圏の列車内の光景を見てみると、スマートフォンの操作をしている人の何と多いこと! 乗客の8割がスマホをいじっているという表現をしたとしてもあながち大げさではないと共感してもらえる人もいるのではないでしょうか?

 

車内でスマホの操作をすること自体が悪いわけではありませんが、スマホを操作することに夢中で自分が降りるはずの駅に着いても気づかない、もしくは気づくのが遅れるという状況が生み出されていることが問題を生み出しているようです。

 

というのもスマホをいじっていることで降車駅に着いたことに気づくのが遅れて、あわてて駆け降りる人がとても多いですよ。乗車してくる人がたくさんいる中に逆行して走りながら降りていくのですから、乗ろうとしている人も迷惑です。「駆け込み乗車」は間に合わなくて乗れなくても本人は駅で立ちすくむだけですが、「駆け込み降車」はたくさんの人に「激突」して降りていくこともしばしば。乗る人がなかなか乗れなくなるし、遅延の原因はむしろこちらの方が多いかもしれません。

 

列車内でのアナウンスは「危ないですから駆け込み降車はおやめください!!!!!」が必須です。

 

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2,30年前の通勤ラッシュの映像をYouTubeで見ていると(かなりマニアックですが)ホーム上は確かに混雑していますが、人の動きは結構整然としています。乗る人と降りる人がまさに「あうんの呼吸」です。

どれが良くてどれが悪いかということを述べようとしているわけではありません。しかし自分の世界(スマホの画面)に意識をとられてしまっていて、もしその行為が他の人の迷惑になっているのであれば、少しスマホを操作する手にゆとりを持ってみてもいいかもしれませんね。

いかがお考えになりますか?

人間の悩みを解決する「良い場」をつくる。

評判のいい皆さんこんにちは!

 

私たちはいろいろな人間関係の中で愉しんだり、落ち込んだり、喜んだりと一喜一憂するものですね。人間関係はいろいろな問題を引き起こしますが、同時に人間関係があるからこそ自分という人間が生きていくことができるのも事実です。

私たちは人間関係なくして生きてことはできません。それは生まれた瞬間からです。母親を始め両親や周りの人たちが自分の誕生を祝福してくれたことから始まります。泣いているだけの赤ん坊を支えてくれたのは周囲の人間関係に他なりません。

しかし、そのように人間関係によって成長させていただいた人間も成長した結果、人間関係に悩まされるわけですね。良い人間関係もあればうまくいかない人間関係もあるわけです。

心理学者のアルフレッド・アドラーは「人間の悩みは全て対人関係にある」と言いました。人間関係が全てうまくいっていれば文句なしですが、そうはいきません。たった一つの人間関係がうまくいかないという理由だけで自らの命を絶ってしまう人もいます。

いろいろな人間関係があったとしてもその場が「安全、安心な『良い場』」であれば、たくさんの出来事の中でも自分が対人関係に恐れを抱くことなしに、自分の強みを活かして自分の弱みをさらけ出していくことができるのではないでしょうか。

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人間は自分の弱さに恐れを抱いています。もちろんそれはその通りですが、そんなに人間関係に対して悩む必要があるのでしょうか?

この言葉そのものは語弊があるかもしれませんが、人間の悩みは宇宙の歴史の中ではたいしたことはありません。宇宙は138億年前にできたといわれます。その歴史に比べれば人間の一生はたかだか100年です。その中においての悩みは髪の毛一本の細さもありませんね。

 

人間関係の「良い場」とは「関わり合い、健全度を上げ、影響を与え合う場」といえます。それは決してただ単に「自分にとって居心地が良い」ということではないかもしれません。それは「おもねり」ではなく「思いやり」であること。
「干渉」ではなく「関心」であること。「見守る」ではなく「向き合う」ということ。「遠慮」ではなく「配慮」の心構えであること・・・


そのような「場」ができたとしたら、私たちは強みを活かし合う相互作用の中で本当の自分を発揮して成長し続けることができるのではないかと考えますが、みなさんはどのようにお考えになりますか?

私たち人間は人間関係なくしては人生を生きられないし、幸福になることもできません。自分自身の健全度を上げるトレーニングが続きますね。

女性こそが社会を輝かせることができる。

評判のいい皆さんこんにちは!

 

国内では景気の先行きを不安視する見方が多いですが、本当のところは消費税が10%になったり、2020年になってみないとわかりません。世界中でも物騒なニュースが新聞の紙面を賑わせています。まさに混迷の世の中、この困難な状況を変えていくことができるのは、経済学者でも政治家でも名だたる企業の経営者でもないのかもしれません。

 

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 安倍首相は「女性が輝く社会をつくる」と述べました。そのことは本当に素晴らしいことですね。しかしあえて少し表現を変えてみる提案をしたいと思います。


ある調査で『三十年後の未来はどのようになっているか』という問いに対して多くの人に答えてもらいました。すると大方は男性は「豊かになっている」「社会で生き残る強さを持っている」「便利で効率的な世の中になっている」というような物質的な進歩であったり、機能的な進歩をイメージしましたが、大方の女性は9割の方が「近しい家族と幸せに暮らしている」と回答しました。

どのような世の中に変化たとしても、女性は太古の昔から『人との関係性』が一番大切で、手に入れたいものだったのでしょうね。

まさに「女性が輝く社会づくり」ではなく「女性こそが平和で幸福な輝く社会をつくるリーダーである」のではないかと思いますがいかがでしょうか。

 

現実の世の中はつらくて、苦しくて、悲しくて、怒りを覚え、争いと対立がなくならない、というような困難なことばかりですが、どのような現実が目の前にあったとしても、誰もが人生の目的を「人との人間関係が良くて幸福であること」に定められたとしたら、世界はもっとシンプルで平和なのかもしれませんね。        

「劣等感」はいいもの?!

評判のいい皆さんこんにちは!

 

私たちは人生を重ねていくことでたくさんの成長をしていくものだといえますが、成長するということにも、身体的成長もあれば精神的成長の両側面が存在します。さらにいえばどのような成長をすれば人間的成長をしたといえるのでしょうか。


成長とは「今までの自分」と「今日の自分」を比較して何ができるようになったのか、ということかもしれません。このときのポイントは「他人と自分を比較するのではない」ということです。

そして今までの自分に対して少しずつ様々な経験を蓄積していくことです。f:id:toriosan:20170116152956j:plain

人間は理想を追い求めるものですが、「現実」という今の自分からスタートして成長した成果として理想が手に入るわけです。大体の場合、現実と理想の間にはギャップがあります。そのギャップを成長して埋めることで理想に近づいていきます。アルフレッド・アドラーはそのギャップのことを「劣等感」といいました。

よく劣等感とは「悪いもの」と認識されがちですが、劣等感があるからこそ理想に向かって現実の自分を成長させていく原動力となるものですから、「良いもの」以外のなにものでもありませんね。

しかし劣等感を持っていること自体が、「自分が劣っている」と感じてしまう人がかなりいるようです。そんなことありません。

 

劣等感は良いものですが、なぜ劣っていると感じてしまうのか?それは現実から理想に向かってギャップを埋めることが簡単なことばかりではないからです。

実際の世の中はそんなに甘いものではありません。現実から理想に向かう途中で必ずといっていいほど目の前に立ちはだかるのは「問題」です。すると目の前の問題をなかなかクリアできない自分が存在しています。その問題をクリアできないこと自体を見て「自分は問題を解決できない愚かな自分だ」と勘違いしてしまうのですね。少しぐらい問題が解決できなくても何の心配もありません。そもそも自分の目の前には自分に解決できない問題は現れないのですから。

もう一つ、誤った劣等感を持ってしまうパターンとして、他の人と自分を比べて自分が劣っていると勘違いして自分を責めてしまうことが上げられます。「あの人はできているのに自分はできない」と考えてしまいます。他の人と自分は確かにいろいろな能力や知識や経験や立場が違っていて「差」は生じているでしょうけれども、人と自分はもともと違う個体です。違う個体なのになぜ同じ土俵で比べてしまうことがあるのでしょうか?存在として違うのですから比較する理由がありませんよね。「優秀だ」と言われる人がとなりにいたとしても堂々としていましょう。

 

 

人間の成長は命を終わらせる時まで続きます。自分はこのぐらいできているから大丈夫だと満足せず、まだまだ自分は未熟で理想まで成長できる!と「健全な劣等感」を持ち、謙虚に学ぶということが、自分の人生の幸福をつくり出すのだと気づかされますが、いかがでしょうか?  

愛情は成長を妨げる?!

 

評判のいい皆さんこんにちは!

 

先日トマト栽培の農家の方にお話を伺う機会がありました。良い作物を育てるには「土」が大切だとはよくいわれていますが、作物に対する「愛情」も重要だといわれています。

 

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しかしその方はトマトを植えるときに「大事に」植えてはいけないといいます。ではどのように?いというと「適当に」植えるのだそうです。苗を植える穴は浅く、上からかぶせる土も少量で、あとは「トマトを信じて任せる」のだそうです。大事に植えていたずらに環境を良くするのではなく、トマトの持つ力を信じて自らの力で育つように応援するのです。 

 

 

愛情が過ぎると過保護になって逆に「成長を妨げてしまう」ということに気づかないことが多いかもしれません。子育てやスポーツチームの育成、職場の人間関係などでもよくしてしまうことですね。もちろん施す側はよかれと思ってしていることですが、当の本人にとっては自らの持つ可能性を開く機会を失っているかもしれません。

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子どもに「勉強しろ」「勉強しないとだめだよ」という親はたくさんいますが、そのように言われて子どもは勉強するのでしょうか?もし勉強したとしても「言われたからやる」「楽しんでやるのではなく嫌々やる」ということになるでしょう。それでは子どもにとって勉強はやらされ感があるものでしかありませんよね。

 

 

「人は変えられないから自分を変える」=人を変えようとするのではなく、自分が相手を信じ、待ち、許すという人間力を自らが高めていくことが、作物も人間も生きとし生けるもの全ての成長に大切なことだと、あらためてその方から気づかせていただきました。

人に求めるのではなく、「自分に求める」ということですね。

「思いやりとおもねり」に気づき、「任せる」と「放任」の違いに気づき、「認める」と「やらせる」の違いに気づく。

人間関係をよくするためには自分の人間力を高めることしかなく、人間力を高めることがひいては人生の幸福をつくり出すのだと感じますが、みなさんはどのようにお考えになりますか? 

何で動物の赤ちゃんは生まれてすぐに自分の足で立てるのに人間の赤ちゃんは自分の足で立てないの?!

評判のいい皆さんこんにちは!

 

少子高齢化と人口減が日本の直面する問題ではありますが、私たちの周りでも新しい命が誕生していることも事実です。そして未来を担う子供たちの誕生とその存在はいつも私たちを幸せにしてくれますね。

 

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人間の赤ちゃんは約十ヶ月強で生まれてきますが、その期間自体は他のほ乳類と比べても比較的長い時間がかかっています。動物は全般的に母親の胎内にいる時間は総じて短く、かつ子どもは生まれるとすぐに自分の手足で立ち、数ヶ月内には自ら食べ物を得られるように自立していくのに対し、人間の子供は肉体的に自立するにも精神的に自立するにも数年、いやある意味永遠に自立できないかもしれません。


ということは母親は自立できない子どもをかなりの早産で生んでいるのだという学説があるほどです。
その理由は諸説ありますが、人間が人間として生きていくための「社会性」を学習するために、他の人、特に母親との関わりの時間を費やす必要があり、だからこそあえて長い時間自立できないように早熟な状態で生まれてくるのだといわれています。

 

社会性を学習して「人の役に立つ」という、人間にしかできない素晴らしい能力を持ってこの世に存在させていただいている感謝を恩返しするためにも、「自らは何をして世の中に貢献する人間なのか」を問い続けることが人生の意味や価値といえるかもしれません。みなさんはどのようにお考えになりますか?  

日本はすでに世界の進化に取り残されている?

評判のいい皆さんこんにちは!

 

 

先日中国の大学生との交流の時間を持つ機会がありました。彼らは日本語学科で勉強をしていますから日本語が堪能です。単位修了のための最終発表「日本から学ぶこと」というテーマのプレゼンを聞かせていただきました。

 


彼らは「日本には『お陰様・お互い様』という人間関係がある」「日本の職場では報・連・相でコミュニケーションをとっている」というような内容で、たくさんの日本の良さを発表していました。聞いている私たちは「それって実際に日本に住んでいる日本人である自分たちはどれくらいできているのだろう」と日本人としてとても恥ずかしく、そして反省させられました。

彼らは日本人以上に日本を愛しているし、日本から学ぼうとしています。報道で知るような「反日感情」はそこにはありません。

 

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今回訪れた上海はすでに東京とは比べようもないほど発展しています。異国に着いたときの玄関は大方の場合空港ですが、空港に着いた時真っ先にすることはパスポートの所持を確かめることよりも、長時間のフライトで我慢していたトイレに行くよりも「スマホの電源を入れ、フリーWiFiが使えるかを確かめ、すぐに現地の情報を検索する」ことではないでしょうか?しかし日本の空港ではWiFiが完全にフリーではないですし、電車や地下鉄やバスに乗ってしまうとWiFiは使えません。上海や世界の多くの国では地下鉄の車内でフリーWiFiが使えますし、町中の多くの建物内でもフリーWiFiが使えます。

 

「日本は安全で平和で優れた技術を持っているから大丈夫」「今まで世界のどの国よりもこれだけ先を進んでいたから大丈夫」という意識では、すでに日本が世界に取り残されていることを知らないのは日本人だけになってしまうのかもしれません。

私たち人間は変化と安定の二つであれば安定を望みます。しかしいつもまでも安定したままでは、今までは幸福と感じていた環境もいつの間にか変化に取り残され、幸福ではなくなるのかしれません。「積極的に

 

変化に対応すること」が成長といえるのかもしれませんね。いかがでしょうか。