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「意識」=言語、「無意識」=感覚。

評判のいい皆さんこんにちは!

 

人間脳は意識を言語化して動き始め、自分の行動を変え、現実を変え、未来を変えて行くことができます。ここがは虫類やほ乳類と決定的に違います。は虫類やほ乳類は意識を変えることはできません。ありのままの現実に対して、本能や性格で立ち向かうしかありません。死への恐れから逃れるために先制攻撃をしかけ、二択で選び取ることを手に入れたのに、は虫類やほ乳類は現実の環境に対応できず、結果として死んでしまうことになります。人間はそうではありません。死への恐れから逃れるために意識を変え、言語を使い、みんなで幸せに生きる、ということができるのです。

しかしそれが理解できたとしてもなかなかその通りにできません。「意識を変える」ということが難しいものだと考えてしまうのです。

 

 

「禁酒をしよう!」「禁煙しよう!」「ダイエットしよう!」という目標を立てたことがある人も多いと思います。しかし多くの人が途中で挫折してしまった経験をお持ちではないでしょうか?

 

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「禁酒」を例にすると、「禁酒しよう!」と決めるときには、「禁酒したい」という意識が働き、言葉を発するかどうかは別として「禁酒しよう!」と言語化しています。しかし夜眠れなくなったときや、飲み会の席でノンアルコール飲料だけでは物足りなくなったとき、「禁酒しよう!」という決意よりも、勝手に体が動いて「つい飲んでしまう」ことになります。つまり「分かっちゃいるけどやめられない」という状態ですね。

 

いったんは意識を言語化しているのに、無意識に体がお酒を欲しがって反応してしまっているのです。お酒を飲んで気持ち良くなっているときの「感覚」が、意識を言語化した決意よりも勝って、本能で無意識にお酒を飲んでしまうのです。「禁酒」「禁煙」「ダイエット」などは、まんまとこのパターンにはまりますね(笑)

 

一説によると意識よりも無意識の方が20倍から2万倍も働くともいわれます。無意識のとは「頭が働いていないとき」と考えるとわかりやすいのですが、「ぼーっとしている」ときの方が身体の感覚に敏感になっています。

学校の試験などで、試験に集中して意識を向けているときは、頭は使っている感覚はありますが、体がどのようになっているかを感じることはあまりありません。しかし試験が終わってから「どっと疲れた」と感じることがよくありませんか?意識を向けて頭を使っているときよりも、意識が和らいで無意識のときの方が身体の感覚がはっきりとしています。

このように「意識」=「言語」、「無意識」=「感覚」の区別を知っておくと自分の行動をより理解できるようになります。

 

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「感覚」は多くの場合「体験」が元になります。「気持ちが良かった」「楽しかった」「面白かった」や「気分が悪かった」「むかついた」「怖くて恐怖だった」という感情に触れたものが体験です。

ここでポイントなのは「感覚」とは「体験」そのものよりも「どのように感じたか」ということの方が大きいということです。事実の「出来事」よりも「感じ方」の方が人間にとってインパクトを残すということです。この「感じ方」が人間の「無意識」に影響を及ぼすのですね。

 

「禁酒」の例も、「お酒を断って健康な身体を取り戻す」という理想よりも、「お酒を飲んで気分よく楽しんだ思い出」の方がより鮮明に体験として残っているから、本当に実現するかどうかわからない未来の理想よりも、もう一回あの体験を得たいという無意識の「感覚」が勝るということです。

 

いや~、確かに気持ちが良かった体験は繰り返し得たいと思います。でもこれでは人間変わりません。同じことの繰り返しになってしまいます。この罠にどのように向き合っていきますか?

性格は変えられないが、「意識」は変えられる!

評判のいい皆さんこんにちは!

 

人間脳は誰とも境界なく、というより誰でもみんながOKだという思考を持つ脳です。「みんな」の中に区別はありません。誰とでも平和に幸せに生きていきたいと願う脳です。

しかし現実にはそううまく機能しません。というのはは虫類脳やほ乳類脳が人間脳よりも強く反応してしまうからです。は虫類脳は「本能」ほ乳類脳は「性格」です。それは変えられるものではありません。

 

部屋の中で飼っていたお座敷犬「ポチ」がある日、テレビの映像で、氷原を駆け抜けるシベリア犬を見て、「なぜ俺は部屋の中でぬくぬくと平凡に暮らしているんだ?俺もあんな風に氷原を疾走するぞ!」といって走り出すようなことはしません。お座敷犬「ポチ」はいつまでもお座敷犬のままです。性格は簡単には変わりません。

 

本能は「自動反応」するし、性格は変わらない、とすると自分のいつものパターンは変わらずに、いつも同じところで不健全になるし、あきらめるし、人と対立するし・・・一向に自分の状況は変えられません。

ではどうするか?

「意識」を変えるのです。人間脳がほ乳類脳と決定的に違うのは「意識」を持つことができるようになったということです。「意識」は何で表されているかというと「言語」です。人間は言葉で意識を表現することができるのです。

 

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「言葉」といっても音声で表すものばかりではありません。文字もそうですし、頭の中で考えることもすべて「言語」です。同じ現実を見ても意識を変え、言葉を変えれば自分を変えることができます。「あの人は短気だから嫌い」という現実は「あの人は情熱的だから好き」と変えることができるのです。

言葉を変えるだけで現実が変わり自分の未来が変わります。このチャンスを生かす手はないように感じますがいかがでしょうか?

「人間脳」が人生の未来と幸せをつくり出す。

評判のいい皆さんこんにちは!

 

いつものパターンで二択を繰り返しているのがほ乳類脳です。これも良い悪いということではありません。人間とはそういうものだということです。

しかし問題は「いつものパターン」でやってしまっていることです。その二択はときによって選択を変えるのではなく、「いつもと同じ」選択をしているということです。いつもと同じパターンだということに本人が気づいていないということが様々な問題をつくり出しています。

それまで生きてきた環境や状況で経験上選択してきたことが土台となっていつものパターンを繰り返します。関東の人は関東の味付けに慣れていて、それが美味しいと感じるし、関西の人は関西の味付けが美味しいと感じます。これはその環境に長い間生きてきたからこその選択です。特に一生懸命に考えて選択したのではなく、いつの間にか選択していたものです。さらにいえば環境が変わればそれらの選択は後で変えることができるようなものです。関東から関西に引っ越しをして、毎日その味付けのものを食べていればそのうち美味しいと感じることができるようになります。は虫類脳の本能は「自動反応」なので変えることはできません。二択の選択も「くせ」としてやっているので、なかなか変えることはできないように感じますが、実は「くせ」は自分の意識が変われば案外変えることができるものです。

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 人間はほ乳類から進化してきた過程で、この二択をしていると同じ種や仲間であっても仲間として重んじるものもあれば、排除するものも出てしまい、あるいは対立する関係性をつくり出すことに気づきました。これでは同じ種や仲間であっても助からないものがでてしまいます。

そこで人間はさらに脳を進化させました。それが「人間脳」です。

「人間脳」は「誰でもみんな」がOKで、「誰とでも」うまくやろうじゃないか!と考える脳です。そこには何の制限も区別もありません。「みんな」というのは言葉通り「みんな」です。人種、性別、年齢、宗教、思想などはまったく関係ありません。地球上全員みんなが幸せに生きることを目的としているのです。

こんなに素晴らしい思考を持つ人間脳ですが、もちろん実際には「みんな」が幸せを分かち合おうとしていないのが現実です。ただしそれは人間が「人間脳」の使っているのではなくて、「は虫類脳」や「ほ乳類脳」を発揮して生きてしまっているからです。

理屈はシンプルですが、その通りに動かないのが「脳」ですね。

「ほ乳類脳」がいつもワンパターンで選択している。

評判のいい皆さんこんにちは!

 

は虫類脳がいつも「死への恐れ」から逃れるために、不健全性を発揮し視野を狭めて他者を攻撃して自分の身を守ろうとするから、人間はその本能によって人を傷つけ、自分を傷つけて生きているということでした。

これは悪いことではありません。人間もそうやって「生き延びてきた」から子孫である私たちがこの世に存在しています。

問題はは虫類脳を発揮してしまうと数々の問題を引き起こしてしまう、ということです。

人間はもちろん不健全に生きていたいと思っているわけではありません。しかしは虫類脳は本能なのであらゆる場面で人間も本能を発揮してしまい、そのたびに不健全から来る攻撃性で多くの人を傷つけてしまいます。

それを理解したのであればなんとかしては虫類脳を発揮させないようにしなければ良い!と思っても、そんなに簡単にはいきません。は虫類の問題を解決するには、ほ乳類脳の理解も必要です。

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は虫類からほ乳類に進化するときに動物は考えました。

は虫類のように「食うかために生きる」の殺伐とした世界では、毎日が死への恐れとの戦いです。それではあまりに切ないので、ほ乳類が考え出した発明が「群れで生きる」ということです。

基本的にほ乳類は家族や群れで暮らします。(例外もあります)

群れで暮らすとはどういうことか、それは死へのリスクを減らすことです。単独で生きるよりも群れで暮らすことでメリットが生まれました。

 

①敵から身を守りやすくなる。

個の力は弱くても集団でいることによって大きな力となり脅威から身を守りやすくなります。

②得意なことを分担して効率よく生きられる。

狩りをするのが得意なものは狩りに出かけ、子育てをするのが得意なものは子育てをする、というように、得意なものたちがそれぞれ役割分担することで効率よく効果的に生きることができます。

③困ったときに助け合う。

集団でいると仲間意識が生まれ、お互いに助け合うようになります。食事にありつけないものが減り、弱いものをかばうようになります。

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このようにしてほ乳類は、は虫類よりははるかに生き方を変えることができました。しかしこの世の中はすべて対象性と相互作用で成り立っています。

ほ乳類が「群れで生きる」ことからメリットを享受することで、デメリットも手に入れることになりました。

 

①「敵か味方か」「正しいか正しくないか」「良いか悪いか」の二択で選ぶようになった。

→「群れで生きる」ということは、自分の群れは居心地の良い集団ですが、相容れない集団とは受け容れられない相手として見るようになりました。さる山では同じ仲間のさる山は助け合いますが、いつもけんかをしているあちらのさる山はいつも敵になります。どちらが自分たちにとって良いものなのか二択で選び取ろうとします。

 

②群れの中で「認められたい」という欲求を持つようになった。

→狩りをする集団の中でもやはり優劣ができあがります。狩りをするといつも獲物を仕留められるものと、ほとんど成果をあげられないものにわかれます。すると成績優秀なものが集団の中で認められ、劣っているものは集団から仲間はずれにされます。ゆえに集団に認められたいという承認欲求を持つようになりました。

 

人間行動もこのほ乳類脳が働いていませんか?

いつも同じパターンでいつも同じ二択でものごとを捉え、ものごとを選択しています。「この人は気が合うけど、あの人は嫌い」「これはいいけど、あれはやりたくない」という選択をいつものパターンで繰り返してしまっています。

「は虫類の脳」が人間行動を厄介なものにしている。

 評判のいい皆さんこんにちは!

 

人間はなぜこうも面倒なのでしょうか?

もっとシンプルに生きられるのであればそうしたいのに、泣いては笑い、怒っては悲しみ、感情に左右されて生きているようです。

しかし感情に左右されているというのは勘違いで、人間は「死への恐れ」から逃れたいばかりに、感情をつくり出し、自分をごまかして生きてしまっています。

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脳の進化を大まかに説明したものとして「脳の三層構造」といわれるものがあります。人間は進化の過程で「は虫類」→「ほ乳類」→「人間」と進んできました。もちろん生物学的には違いますが、脳はそのような三種類の層からできているという考え方です。人間の脳は進化の過程で経験してきた「は虫類だった頃の脳」や「ほ乳類だった頃の脳」も持っていて、何らかの理由でそれらの脳が働いてしまうというように考えられています。

 

「は虫類脳」は「生きるか死ぬか」「食うか食われるか」の選択で生きている脳です。は虫類に限らず生物は「生きるために食べる」ことをしますが、は虫類は生きる目的がまさに「生きるために食べる」だけです。それ以外のことはしません。腹が減れば敵に闘いを挑み食うか食われるかだけの日々を送ります。腹が減れば共食いさえします。生きている目的は死なずに種を残すだけです。

は虫類が死なずに生きるためにはあらゆる敵から身を守り、敵からやられる前に先制攻撃を仕掛けます。ターゲットを見つけてそれを捕らえようとしているときの目はただ一点獲物だけを捕らえています。そして空腹を満たすという本能のままに動いています。これがは虫類の特徴であり、は虫類の脳はこの思考を持っています。

①やられる前に攻撃を仕掛ける。

②ターゲットを見つけたときに視野が狭くなる。

③欲求を満たせることができればあとはどうでもいいという不健全性を持つ。

 

今はは虫類の生態を考えるのではなく、私たち人間がこの脳を働かせてしまっているということを考えています。

人間もは虫類脳が動きます。それは自分の身に危険が及んだり、誰かから攻撃されたり、自分の立場が悪くなったり、人間も自分の存在価値が危ぶまれるような場面に遭遇したり、瀬戸際に立たされたりすると、は虫類だった頃の「生きるか死ぬか」の本能が呼び起こされます。そして上記三つの思考や行動によって人を傷つけ、自分を傷つけてしまうのです。

 

このは虫類脳は誰でも持っているし、そうなっているのでそれが悪いということではありません。しかしは虫類脳の働きによって人間はうまくいかない厄介なことを引き起こすのです。少し自分自身のは虫類脳について考えてみる必要がありそうです。

「疲れた」と言わない105歳。

評判のいい皆さんこんにちは!

 

今日は尊敬する105歳、水戸市倫理法人会の大先輩、大久保あい子先生の誕生会に行ってきました。

たくさんの人がお祝いにかけつけています。人徳ですね。

 

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105歳ということは1913年(大正2年)生まれ、同じ年に生まれた有名人に故森繁久彌さんがいます。どちらにしても長い年月を生きてきた方にちがいありません。

 

全国の倫理法人会の活動で実践倫理を学ぶ人たちからも尊敬されている存在です。105歳になられた今でも自分の脚で歩くし、言葉も達者で本当にお元気です。好き嫌いなく食べ、お酒も飲みます。特にハイボールが大好きです。

 

大久保先生とお会いして15年になりますが、たくさんの「大久保語録」を享受いただいています。いくつかご紹介します。

 

①『「疲れる」と言うことはありません。言葉というのは恐ろしいものです。「疲れた」と言った途端にそうなります。』

→当社は「お疲れ様です」というあいさつをやめ、「お元気様です」というあいさつをしはじめたのはこの言葉を聞いてからです。

 

②『私が勉強をやめたら私の子供たちが勉強をしなくなってしまいます。子供たちのために勉強するのをますますやめられないのです。』

→お子さんたちといっても私よりも人生の先輩方です。水戸でも有名な医療法人グループを経営されている立派なお子さんたちに対して、まだまだ勉強を怠るな、という親の愛がゆえに自らが率先して行動を続けています。

 

③『自分は他の方に生かしていただいています。だから私自身がお世話になった人たちのために働きたいのです。』

→ご高齢の方をいたわって当然、もっと楽をさせてあげたいと周囲は思っているのですが、ご本人は周りの人に尽くしたい、と今でも言っています。105歳からお世話されてしまっては立場がありません。私たちも人のために役立つ行動を率先垂範します。

 

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(普通に食事もお酒も召し上がります)

 

やはり私たちに興味があるのは「長生きの秘訣」ではないでしょうか。

 

①好き嫌いなく食べる。

→まずは何でもありがたく食べる、ということです。特に好物はお肉です。さすがに量は多くはないですが、お肉やうなぎなど高カロリーのものも好んで食べられます。もちろんお酒もたしなみます。

 

②女性としての身だしなみを怠らない

→今でも外へ出るときは化粧を欠かしません。そして必ずスカートを着用しています。

 

③倫理の実践

→これは話が長くなるので別の機会に。要するに自然の摂理に逆らわずに原理原則のまま生きるということです。

 

④外へ出て言葉を話す

→少し前までは一人で全国へ講演活動に出かけられていました。高齢者の慰問に介護施設へ出かけられています。「女性の集い」という集まりも毎月行われています。

 

 

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(105歳とうちの息子12歳)

 

大久保先生は第二次世界大戦の終結後、満州で着の身着のまま逃げ、命からがら日本へ引き揚げてきました。現代の私たちからは想像もつかない過酷極まる体験をされています。それを表にも出さず、むしろそのように生きてきたからこそ、そんな体験を我が子や後生の日本人に二度とさせたくない、という想いで愛と優しさを持って接してくれています。

「皆さんの健康が一番です。」「おなかいっぱい食べなさい。」「笑って過ごしなさい。」と辛く苦しい体験をしたときに自らができなかったことを、今私たちに思う存分味あわせてあげたい、という想いを何の見返りもなく、今日も差し出してくれている大先輩に学ばせていただいていることにただ感謝です。

人の話をどれだけ「聴く」ことができるのか?

評判のいい皆さんこんにちは!

 

 

私たちはどれだけ人の話を「聴く」ことができているのでしょうか?

人の話は「聞いて」いても、はたして「聴いて」いるのか?はなはだ疑問です。

「聞く」と「聴く」の違いさえ意識を向けることはあまりありませんが、この二つはまったく違います。

「聞く」のは「聞こえる」ということ。積極的に聞こうとしなくでもいつの間にか耳に入ってきているBGMのようなものです。

一方「聴く」とは「積極的に自ら」聴くということです。このとき自分の意識は相手の言葉を聴こうとしています。

まったく違うものですね。

 

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誰かと会話をするときに「聞く」のか「聴く」のかで、相手との人間関係が変わります。

「聞く」のは自分目線です。相手が何かを話しているのを「聞こえてくる」程度のレベルで聞いています。相手の言葉の一つ一つに意識は向いていません。それどころか自分の聞きたいことしか耳に入っておらず、自分にとって不都合なことは聞いていません。その程度しか「聞いて」いない相手には、もちろん相手も本当のことは話してくれないでしょうね。

しかも「聞く」のは聞いている側の主観でしかありません。自分の解釈で聞いています。相手が言いたいことの本質は関係なく、聞いていた自分自身の価値観や尺度や評価で言葉を返してしまうでしょう。

これでは心を開いた人間関係をつくることはできません。

 

「聴く」ことができる人は少し違います。

「聴く」のは相手目線です。相手が何かを話しているのを「積極的に聴いて」います。相手の言葉の一つ一つに意識を向け、相手の言いたいことは何なのか、漏らさず聴こうとしています。自分の理解ではなく、相手の理解に寄り添う気持ちで聴いています。「聴く」とは「みみへんに十四の心」と書きます。それだけ心を向けて聴いてくれている相手には、もちろん相手も本当のことを話してくれるでしょう。

「聴く」のは聞いている側の主観は存在しません。相手の感覚で聴こうとしています。相手が言いたいことの本質は何か?聴いている自分自身の価値観や尺度や評価は一旦脇に置いて、相手が伝えたいことは何か?を一所懸命に聴いているでしょう。

 

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人間は聴くことよりも話すことの方が圧倒的に多いといわれます。話すことが悪いわけではありません。しかし話したいことがある相手の話をさえぎって、自分の言いたいことを伝えるということには、自分本意の姿勢しか存在しません。

 

「話す」よりも「聴く」の比率を逆転できると人間関係が変わります。コミュニケーションが活性化します。自分本位よりも相手本位の人間関係は「聴く」姿勢から始まるのだと感じますが、いかがお考えになりますか?